43年間やってても、求人の仕事は飽きない。ディップ初の定年退職者、間宮さんに聞く【前編】
2021年4月29日、ディップ初の定年退職となる、広告審査室室長の間宮さん。実は、筆者が新卒時代に大変お世話になった、元上司でもあります。そんな間宮さんに、求人広告のこと、ディップのこと、そして人生のこともちょっと、聞きました(【後編】は明日公開)。
絵を描くのが好きだった少年時代。その後、デザイナーを志す
高橋:間宮さんは今年で65歳になられて、定年退職を迎えられるわけですが、僕にはまだ想像がつかない世界です。間宮さんが子どもの頃は、どんなお子さんだったんですか?
間宮:外出や運動が嫌いで、完全に“インドア派”でしたね(笑)一日中、部屋の中で古いカレンダーの裏白に絵ばかり描いていました。本も好きで、小学校では「シャーロックホームズ」や「怪盗ルパン」など、図書館にある推理小説を読み漁っていました。その後、中学ではバスケ、高校では生徒会、大学では友人と会社をつくり、タウン誌を発行していました。
高橋:事前のアンケートによると、間宮さんの職歴はデザイナーからスタートしたとお伺いしたのですが、志したきっかけは?
間宮:ものすごくありがちな話なのですが、高校時代、美術部に入っていて、そこで描いた絵が賞を取ったんですよ。それで木に登っちゃったっていう(笑)だから学生時代は、有名なデザイン事務所か企業のデザイン室に就職して、日本を代表するアートディレクターになることを夢見ていました。
そこで、たまたま出会ったのがとある求人広告の会社でした。今でこそ日本を代表するような有名な会社ですが、当時はまったくの無名で。そこの制作部の次長が大学で就職説明会をやってくださって、そこで初めて「求人広告」なんていうものが世の中にあるんだと知りました。話を聞いてみると、なんだかよく分からないけど「広告をつくるみたいだ」「面白そう」と感じたので、友人3人でデザイナー職に応募しました。それが1979年のことです。
毎年100社の新卒採用広告を制作。求人は絶対に面白い
高橋:そこで、デザイナーとしての人生がスタートしたと。
間宮:いや、当時はみんな、最初の1年は営業でしたね。新規の。飛び込みってやつです。今でも覚えてますけど、日本橋2丁目あたりの、「ここからここまでで名刺を何十枚集めろ」というのを1年間やって。お客さまのことを知ってからじゃないと専門職にはなれないという実践型のOJTでした。
2年目に念願の広告制作職に配属されたものの、今度は会社で「拠点展開」という新たな施策がはじまって。制作職として何の経験もないなか、突然、千葉営業所の制作リーダーになったんです。印刷会社やライター探しなど、全部イチからのスタートです。それ以降10年間、毎年100社の新卒採用広告を手掛けました。1社6ページの編集記事をつくるために、企画から取材、約2万字の推敲や修正作業をやっていましたね。ときどきしかないカラーページ広告やパンフレット制作の仕事よりも圧倒的にテキスト編集の仕事が多くなって、気がつくとデザインは広告領域の一業務でしかなくなっていました。
高橋:ちなみに、間宮さんが憧れた華々しい広告の世界と、求人広告の世界って、ちょっと隔たりがあるようにも思うのですが、戸惑いやギャップはなかったですか?
間宮:なかったです。むしろ逆ですね。当時TVコマーシャルやポスターが話題になっていた華やかな広告の世界とはまったく違う領域で、こんなにクリエイティビティが要求される仕事があったんだと、だんだん気づいていきました。
求人広告といっても、決まった媒体の制作だけじゃないですからね。いわゆる「採用企画」が仕事なんですよ。たとえば、CI(コーポレート・アイデンティティ)みたいなものとからめて企業理念を提案したり、社名変更にともなってその会社のロゴマークを企画させてもらったり。面白い仕事を結構やらせてもらいましたね。それでもTVコマーシャルがやりたいと転職した仲間もいましたけど、求人以外をやろうとは思わなかったです。
高橋:求人広告の、いちばんの醍醐味ってなんですか?
間宮:すぐに答えが出るというのが一番面白かった。当時は紙媒体でしたから、週刊誌が発売された日に応募の電話が鳴るかどうかの勝負だったんですよ。
著名なコピーライターの仲畑貴志さんが、「求人広告ってすごいよね」とお話されていたことがあって。何がすごいかって言うと、毎週キャッチコピーを考えて、そのキャッチコピーが刺さったか、刺さらなかったかが掲載した次の日には分かる。それってテレビCMをやってたら絶対無理だからねって。しかもそれを何十回、何百回とやるチャンスがある。そりゃ鍛えられるよなって。マネージャーがいくら「いいキャッチだ」「悪いキャッチだ」って言ってても、次の日に応募が来るかどうかで決まるんだよね、そこが勝負だよね求人広告は、とおっしゃっていて。その言葉はずっと大事にしていましたね。
紙からWebへ。国語から算数へ。時代が変わっても大事なのは、常に1対1を突き詰めること
間宮:その後、1999年末に、20年間勤めたその会社を退職して、インターネット広告の代理店に転職しました。広告制作部門を強化したいというので、誘われて。
ようやくE-mailが定着しインターネット広告が急成長する頃で、当時はまだガラケーが主流で、CRMやリスティング広告などWebマーケティングのはしりみたいなことをやっていました。ようやくGoogleとかが伸びてきた頃ですね。
でも、7年ほどその仕事をやって、正直に言うと、だんだんそういう世界が面白くなくなっていったんです。広告をつくると言ったって、実際にはバナー広告をつくるのが関の山で、僕からするとクリエイティブのクの字もなかった。クリエイティブなんかより、もっとデジタルに、ビッグワードとかCVRとかを取っていこうと叫ばれるようになってきて。クリエイティブの価値がどんどん下がっていくような、国語から算数に切り替わるような“コペ転(コペルニクス的転回)”でした。
だから、もう一度原点に返って、現場で求人広告をやりたいなと思ったんです。
高橋:そこでディップに行きつくわけですね。
間宮:転職したのは主に求人を扱う制作会社で、クリエイターとして入社しました。そこが1年後にはディップに吸収合併となって、今に至ります。
でも今考えると、紙からWebに変わっても、国語から算数に変わっても、実は自分がやりたかったことは、そんなに変わらなかったとも思えるんです。つまり、ディップでいうところの「One to One Satisfaction」ですよね。マス広告だろうが、Webマーケティングだろうが、結局ベストマッチを目指してマッチングの精度を上げれば上げるほど、最後は1対1の勝負になるんです。
求人広告で言えば、1名募集している1社に対して1万人応募させるよりも、そのお客さまが欲しがっているベストな人材を1人応募させる方がすごい広告なんだというのを、新人の頃からずっと言われてましたから。「たくさん集めりゃいいってもんじゃねえんだよ」ということですね。
ペルソナでよく言われる「ユーザーの家の冷蔵庫の中身まで想像できるか」。たとえば「理工系の大学生ってこんな傾向があるよね」というデータがあっても、そんなものを鵜吞みにしちゃいけない。そうじゃなくて、自分が知っているナントカ工業大学の何学部の4回生の何某くんってどんなやつだっけ、そいつに振り向いてほしいと思ったら何の話をしたら振り向いてくれるんだっけというイマジネーションがいかにできるか。マッチングの世界では、ユーザーを知ることがいちばんの近道です。
高橋:そうすると、いかに「たくさんの人を知っておくか」も大事になりますね。
間宮:もちろん、求人広告を扱う仕事にとって、人間観察力は絶対必要です。でも、冷蔵庫の中身まで知ってる人って、ふつう友達くらいしかいないじゃないですか。だけどそれしか候補がいないと、企業が求める人物にフィットしなくなる。だから求める人物のヒントは、お客さまからも探すんです。働いている人の中に、必ずヒントがある。実はお客さまがいちばん求める人物像が社長ご本人だったりしますね。
高橋:Webになっても、最後は人に対する興味、想像力が大事だと。
間宮:今、AIで求人広告をつくるみたいな話もありますよね。できると思うんです、多分。でも、最後の「チョイスする」というのは残ると思います。どれだけAI化したとしても、100%は無理で、やっぱり人間であるが故のファジーさというのは、人間が変わらない以上は残りますから。それがある以上は、「クリエイティビティ」みたいな言葉も死語にはならない。
あとは、マーケティングの原理原則として、求人広告も普通の広告も、最後は「AとBのどちらを選ぶか」の「比較」になる。それで何が起きるかと言うと、「Aというスタイルを取ったら効果がいい」と理論付けられたら、今度はAばっかりになって、Aの効果が相対的に悪くなるんです。そうすると、新しい選択肢であるCを用意しなきゃいけなくなる。周りが真っ黒になったら真っ白いほうがよく見えるし、周りが白くなったら黒いほうがよくなる。そういう原理原則がある以上は、新たなものを生み出すクリエイティビティというのは、やっぱり最後まで必要なんじゃないかと思いますね。
(明日の【後編】へ続きます…!)